1912年(100年前)この土地に有島第二農場という名前の広大な農場がありました。
「カインの末裔」や「生まれいずる悩み」などの著作で知られる有島武郎という人物がその所有者でした。
彼は自分の理想と農場の小作人たちが置かれている現状との差を憂いていました。
そこで彼は農場を整備し、相互に助け合う組合を結成させ、農場を小作人たちに無償で分け与えました。
農場主が小作人から搾取することが当たり前であった当時、有島武郎が行った農地解放は大変画期的なことでした。有島武郎への感謝やその行いを後世に伝えるために、ニセコ町には有島という地名や有島記念館が残されています。
以来、第2農場を分け与えられた人々は有島武郎の望んだように相互に助け合い、農業を営んでいました。しかし、旧有島第2農場の大部分は勾配の急な斜面、岩だらけの土地で、町の中心からも離れていました。
時が経ち、経営が上手くいかずに農地を手放して離農する家族が現れ、農地が原野に変わっていきました。
約30年前、多くの人々の思い入れがあるこの特別な土地を購入する男性が現れました。
男性は、農場から望む羊蹄山の姿に惚れ込み、この厳しく多くの人が農業を諦めたこの土地に可能性を感じました。
若いころに一人で来道し、開拓団に加入後、酪農家として原野を切り開いてきた経歴を持つ、フロンティア精神に溢れている人物でした。
多くの人々の手を借り、還暦を超えた年齢ながらも自らトラクターに乗って、原野を牧場へと整備し続けました。
男性は広大な土地を開拓するパートナーとしてダチョウに目をつけました。
旺盛な食欲と高い生命力、粗食に耐える消化能力など、これからの食肉として世界的に注目されていました。
しかし、まだ日本では確立していないダチョウの飼育は一筋縄ではいかず、厳しい環境にある原野の開拓も遅々として進みませんでした。
しかし、その男性は粘り強く取り組みました。
新たに牛を導入し、入り組んだ林の中や笹薮を牛の蹄によって拓かせました。またダチョウはその旺盛な食欲で、牧場に茂っていた手に負えない雑草を食べ、糞は土地を肥やしました。
みるみる美しくなっていく牧場は多くの人々の目にとまり、「どうしてこの牧場の草の色だけは秋になっても青々としているのだ!」と感嘆させました。
動物が豊かな自然の中でのびのびと過ごす姿は訪れた人々を感動させ、子供を連れた親子や旅行者、写真家や画家といった芸術を愛する人々も好んで訪れる場所になりました。
100年の時を経て、農場は、有島武郎が愛したニセコの自然を守りつつ、新しい感動が次々と生まれる場所へと変わりました。
しかし、ダチョウの飼育は牧場を始めて20年近くたっても、採算的には厳しい状況が続いていました。
男性も年老いており、このままではダチョウの飼育をやめなくてはならないと不安を感じ始めました。
そこで、立ち上がったのが男性の孫でした。小さなころから牧場を遊び場として育った孫も大きくなり、男性を手伝ううちに、この多くの人に愛されているダチョウの飼育を続けていきたいと考えました。
男性の孫は祖父や多くの人々の助けを借りながら、ダチョウの魅力を発信しつづけ、また環境保護のためにもなるダチョウ製品の販売に力を尽くしました。
ダチョウの飼育や牧場の経営が少しずつ軌道に乗り始めました。
愛情をもってダチョウと接しながら、その命を頂くという牧場の仕事を通して、いつしか男性の孫の中で、ダチョウという生き物がただの商品ではなく、「だちょうさん」と呼びたくなる大切な仲間だと感じられるようになっていました。
そして、その命についての気づきを多くの人に知ってもらうことが大切だと気づきました。
雛の頃から大切に育て、大切にお肉にして、販売する。一貫しておこなう牧場だからこそ伝えられることだと分かったのです。
現在、多くの修学旅行生を農業体験に迎え、愛情をもって接する姿を見せ、その命を頂くことについて考えてもらう機会を設けています。
男性の孫が思った以上に、牧場は多くの人々が感銘を受け、学ぶ場となりました。
自由に走り回り、キラキラとした表情で近づいてくるだちょうさんの存在を間近に見て、餌をやり、触れ合うことが学生たちに命についての学びを与えています。
2018年春、だちょうさんの卵を使ったお菓子を販売する小さなお店をオープンし、そこではより多くの人にだちょうさんの魅力を伝え始めました。
長い年月を牧場の発展に尽くし、文句も言わずに支えてくれているだちょうさんにこれからも元気でいてもらうこと。
そのことが多くの人々の学びや感動、私たちの幸せにつながると信じて、これからも牧場を続けていきます。